東京都(※)の中央に位置する、国分寺市。
多数の路線にアクセスが可能な国分寺駅は多摩地域でも利便性の高い駅の一つで、「国分寺」は駅の名前としても有名ですね。
※島嶼部を除く
そんな国分寺市に、かつてその名の由来となった「武蔵国分寺」という大きな寺院が存在し、その遺跡である「武蔵国分寺跡」が国史跡に指定されていることはご存知ですか?
2022年は、なんと「武蔵国分寺跡」が国指定史跡になって100周年のメモリアルイヤーなんです!
「どんなお寺だったのか?」「そもそも国史跡ってなんだろう?」
武蔵国分寺跡資料館で国分寺市教育委員会 学芸員・増井有真さんに話を伺ったところ、その魅力にebooksスタッフもググッと引き込まれてしまいました。
今年は市内では記念イベントや展示が多数開催され、見どころ倍増! まさに今が旬の国分寺市で、地域の歴史に触れてみませんか?
国史跡指定100周年! 武蔵国分寺跡とは?
「武蔵国分寺跡」は、大正11年(1922年)10月12日に国史跡の指定を受け、2022年10月に国史跡指定から100周年を迎えます。
武蔵国分寺跡にはどんなお寺があったの?
聖武天皇によって全国に作られた「国分寺」のひとつ
天然痘の流行、大地震、日照りなどが相次いだ奈良時代。
当時の大臣にあたる権力者らも天然痘で亡くなり、権力争いや豪族の台頭などで混乱する日本の情勢を憂いた聖武天皇は、741年に「国分寺建立(こんりゅう)の詔(みことのり=命令)」を発布しました。仏教によって災いを鎮めるため、当時の都道府県にあたる66の国と2つの島それぞれに「国分寺」を建てるように命じたものです。その中で当時この地域にあった武蔵国(むさしのくに)に建てられたのが「武蔵国分寺」でした。
▶【もっと知りたい!武蔵国分寺跡】 国分寺建立の詔からわかる聖武天皇の人柄
好条件が揃った抜群の立地!
武蔵国分寺は、741年の詔の発布から17〜8年後に主な建物が完成したと考えられています。
諸国の国分寺は、「国の華」として相応しい良い場所を厳選して建てられましたが、中でも武蔵国分寺はかなりの好立地に造られています。
国分寺建立の詔には国分寺を造る場所の指示として「人家に近すぎると悪臭が漂ってしまうし、遠すぎて集まる人が疲れてしまうのは好ましくない」とあり、人家から程よい距離の場所が選定されました。
また、このころの都や国府(当時の都道府県庁)の建物は、中国から伝わった四神相応思想に基づいて造営されていました。この思想は「東に川/西に街道/南に低地/北に山」の四つの要素が揃っている場所で気の流れが整うというものです。
そこで、武蔵国分寺跡とその周辺の地図を見てみましょう。
写真の地図中央部、黒い太線で囲まれた部分が武蔵国分寺の寺域の範囲です。この周辺の環境を見ると、僧寺の中心から見て東西南北それぞれの方向に、4つの条件が揃っていることがわかります。
- 東:野川 右上の市内全体図を囲むように流れる川
- 西:東山道武蔵路 地図自体の中央付近を縦に走る色付けされた道路
- 南:平地 府中市街地方面に向けて広がっている
- 北:国分寺崖線 西から北東を囲むような形で薄く色付けされた部分
この4つが綺麗に揃うことは意外と少なく、さらにこの地は多くの国分寺同様、国府からもほど近い場所でもありました。武蔵国の国府は2kmほど離れた現在の府中市 府中本町駅付近にあり、ちょうど国司(当時の知事にあたる役職)らの行き来がしやすい距離感です。
こういった観点から、武蔵国分寺のあった場所は数ある国分寺の中でもまさにベスト・オブ・ベストの立地であったといえるのです。
お寺というより、総合大学?
武蔵国分寺跡では、東山道武蔵路を挟んで僧寺・尼寺が造られています。それぞれ門と塀で囲まれた中に仏像が置かれた「金堂」や修行を行う「講堂」などの建物があり、僧寺には20人の僧侶(男性)、尼寺には10人の尼僧(女性)が住んでいました。
ちなみに、国分「寺」といっても現在のようにお墓があったりするようなお寺ではなく、総合大学のような機能を持った施設でした。多数の僧侶・尼僧が暮らしていく過程で必要になる農業・医学・治水などの研究が日々行われ、その知識は周辺で暮らす庶民に還元されました。寺院への庶民の立ち入りは大工などの職種に限定され、それ以外の民は荘厳な建物群を外から目にするだけではありましたが、国府とともに政治・文化の中心として大きな機能を果たしていたのです。
一番のランドマーク「七重塔」
武蔵国分寺の建物群の中で最初に建造された七重塔。その中には国を守るためのお経が納められていましたが、実は階段もなく、人が登ることができる構造にはなっていません。
武蔵国分寺の七重塔は当時としてはかなりの高層建築で、およそ60m(現代のビルで15〜20階建相当)の高さがありました。近年オープンした国分寺駅北口の高層ビル「cocobunji EAST」の高さが約135m(地上36階)ですので、その半分弱だったということになります。ですが、当時の武蔵国分寺周辺には荒野が広がっていたため、この高さの塔でも八王子から確認できたと言われています。今で言えば、ちょうどスカイツリーなどと同等の驚きを持って見られていたのではないでしょうか。
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「国指定」の「史跡」とは?
「史跡」は文化財の一種
「史跡」は、伝統芸能や古い街並み、芸術などと同じ、貴重な国民的財産である「文化財」の一種です。古墳や城跡などの遺跡の中でも歴史的価値の高いものが「史跡」に指定されますが、その史跡が国・都道府県・市区町村のどの範囲にとって重要なのかによって、どこの指定となるかが変わります。つまり、武蔵国分寺跡は、国の歴史にとって重要な遺跡なので国史跡に指定されたということになります。
武蔵国分寺跡は大正11年に国史跡として指定されましたが、これは大正8年(1919年)の史跡名勝天然記念物保存法(文化財保護法の前身にあたる法律)施行から、かなり早い時期での指定でした。
史跡の保護と整備
昔の様子を今に伝える史跡は、後世に残していくために保護が必要です。
史跡の保護には工事や開発の制限がかかりますが、高度経済成長期には土地所有者による無許可の開発で武蔵国分寺跡の一部が破壊されてしまったことがありました。この件は国会でも問題視され、これを受けた国分寺市では、昭和40年度から全国に先駆けて史跡公園化構想のもと、史跡の公有化事業に着手しました。
現在、調査が済んだ場所に当時の建物をイメージしたタイルや案内板の設置が進んでおり、武蔵国分寺跡一帯が体験学習や市民交流活動を行える歴史公園として整備される予定です。
「武蔵国分寺跡」が100年前に指定された理由と、追加指定の経緯
国史跡指定と発掘調査
江戸時代の武蔵国分寺跡は既に建物が消失した状態でしたが、文字入りの瓦片や大きな礎石(建物の柱を支えるための巨大な石)が見つかったことで既に有名でした。当時のガイドブックのような文書にも紹介されるほどで、拾った文字入り瓦片の交換も行われていました。
ガイドブックの挿絵(下写真)にも、道端にある礎石と瓦の破片が描かれています。
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ちなみに瓦の文字は国分寺造営に関わった武蔵国の各郡や個人の名前で、さまざまな文字の入った瓦が見つかっています。このことから国分寺の造営が国の力を結集して行われた一大プロジェクトであったことがわかります。瓦に入れた文字で自分たちの参画を示すことも重要とされたのです。
▶【もっと知りたい!武蔵国分寺跡】 武蔵国分寺の完成時期は瓦から推測できる!?
このように古くから国分寺跡の存在が認識されており、史跡指定に足る情報が得られていたため、武蔵国分寺跡は早い時期に国史跡に指定されました。ただ本格的な発掘調査は昭和31年からで、大正11年の指定当時の書類を見るとまだ不明点も多かったことがわかります。
「武蔵国分寺跡」はここが違う!
武蔵国分寺跡の特徴の一つは、一般の国分寺の約3倍ともいわれる広さです。東西約1.5km・南北約1kmの区域内には、僧寺・尼寺・七重塔など武蔵国分寺に関連する遺跡が多数存在し、中でも僧寺の金堂は幅36mと全国でも3本の指に入る程の大きさ・荘厳さを誇っていたと言われています。
開発の影響を受けやすい都心部からほど近い場所で、これほどの大きな遺跡が現存していること自体も珍しく、これも早期に存在が確認され、国史跡として調査や保護が適切に行われてきた武蔵国分寺ならではの特徴といえます。
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現在も史跡指定範囲は拡大中
国史跡に指定された後も、周辺調査の過程で新たに見つかった遺跡を追加で指定する場合があり、最も新しいものでは令和3年の「僧寺伽藍中枢部区画東辺他」の追加指定の例があります。最初の史跡指定から100年、順次追加指定を行って保護範囲を広げ、武蔵国分寺跡の重要な遺跡群を守ってきたのです。
また、特筆すべきものに平成22年に附(つけたり)指定となった「東山道武蔵路跡(とうさんどう むさしみちあと)」があります。「附指定」とは、史跡などの指定時にそれと関連するものをセットで指定することです。
東山道武蔵路は7世紀後半から8世紀前半にかけて整備された都と地方を結ぶ大きな道路「官道」の一つで、上野国(現在の群馬県)を通る東山道から武蔵国へ南下するために造られた支路です。このような古代道路が寺院とセットで国史跡として指定されることは稀で、この附指定は武蔵国分寺跡のもう一つの大きな特徴になっています。
道路の存在は平安時代の書物「続日本紀(しょくにほんぎ)」で確認されていました。大規模な遺構が見つかったのは平成5年から始まった旧国鉄中央学園跡地の開発に伴う調査の段階で、これを受けて市民運動がおこり、開発計画は変更、遺構が貴重な古代道路跡として保存されることになったのです。
この時発見されたのはJR西国分寺駅東側の幅12m・長さ340mの巨大な道路跡で、現在は地下遺構を保存しつつ地上で遺構レプリカも展示されており、道路跡の約300mは歩道として整備・保存されています。
2022年度は「武蔵国分寺跡 国史跡指定100周年事業」が展開中
2022年4月のオープニングイベントを皮切りに、国分寺市では「武蔵国分寺跡 国史跡指定100周年事業」として展示やシンポジウム、子ども向けプログラムなど多彩なイベントを開催してきました。
特に4月のオープニングイベントでは、姉妹都市である佐渡市の太鼓芸能集団「鼓童」の演奏や物産展が開催され、多くの来場者で賑わいました。
現在、特別展「史跡武蔵国分寺跡のあゆみ」が開催中!
今回お伺いした武蔵国分寺跡資料館では、2023年2月まで武蔵国分寺跡史跡指定100周年記念・特別展「史跡武蔵国分寺跡のあゆみ」を開催しています。
武蔵国分寺跡史跡指定100周年記念・特別展「史跡武蔵国分寺跡のあゆみ」
日時 | 開催中 2023年2月12日(日)まで |
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場所 | 武蔵国分寺跡資料館 講座室 |
特別展では100年間の保護・調査・活用のあゆみを紹介しており、発掘調査で見つかった瓦や写真資料に加え、普段は展示していない国史跡指定当時の文書の実物を見ることができます。
さらに武蔵国分寺跡と同じ大正11年10月12日に国史跡指定された、全国8箇所の国分寺跡に関する展示もあり、それぞれに使われた瓦の絵柄の違いなども見比べられます。例えばこの4つの鎧瓦(あぶみがわら)にはいずれも蓮の花をモチーフにした柄が描かれていますが、地域ごとに特徴があることがわかります。
さらに、資料館の窓口では、来館記念として記念ステッカーとバッジをプレゼント中です!
※なくなり次第終了
10月には記念講演会、11月にはステージイベント&物産展も!
指定日である10月12日が近づき、このほど記念講演会(10月)と文化交流イベント(11月)の開催が発表されました。
武蔵国分寺跡 史跡指定100周年記念講演会
「武蔵国分寺跡 史跡指定100周年記念講演会」
日時 | 2022年10月22日(土) 10:00〜16:00 |
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場所 | いずみホール |
【要申込】メールまたは電話にて 10月14日(金)まで
詳細は下記リンクまたは電子ブックにてご確認ください。
専門家による武蔵国分寺跡に関する講演と、各地の国分寺跡に関する事例紹介を実施。今回の取材のため解説を伺ったスタッフとしては、実際にお話を聞いて初めて武蔵国分寺跡の魅力を理解できた部分が大きく、この記事で武蔵国分寺跡に興味を持たれた方にも、ぜひご参加いただきたいところです。
祝 武蔵国分寺跡史跡指定100周年 姉妹都市・友好都市文化交流イベント
「祝 武蔵国分寺跡史跡指定100周年 国分寺市 姉妹都市・友好都市文化交流イベント」
日時 | 2022年11月3日(木・祝) |
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場所 | 史跡武蔵国分寺跡(雨天時:市立第四小学校) |
詳細は下記リンクまたは電子ブックにてご確認ください。
※ステージイベントの着席観覧はメールでの事前申込みが必要です。詳細はebooksに掲載のチラシをご確認ください。 【申し込み締め切り:10/20(木)】
4月に引き続き「鼓童」の公演に加え、国分寺市観光大使の「荒川ケンタウロス」LIVEが楽しめます。地元だけでなく姉妹都市の新潟県佐渡市、友好都市の長野県飯山市・埼玉県鳩山町の物産を購入できる物販コーナーも見逃せません!